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"Otro Littleshoemarks"
特製双六を補足するもうひとつの[小さな靴あと]です。
熊本を中心にした双六サイトの姉妹サイトとして、阪神間に着目して提供しています。


西宮神社双六.
知っているようで知らない「えべっさん」の彼是諸々

西宮神社の建造物は、そのものの価値ももちろんですが、そこに存在した「背景」を垣間見ることに大きな価値と楽しみ方があります。気にせず流してしまえば、ただの石造物です。しかし掘られている文字をちょっと気にしてみるだけで、その当時の人々の生活や西宮の様子が生き生きと描き出されてきます。それだけ西宮神社が「えべっさん」として、人々の信仰を集め続け、親しまれてきたということなのでしょう。双六の作成にあたっては西宮市立郷土資料館様、西宮神社様に大変なご協力をいただいています。郷土資料館のイベントなどに参加すると、さらに楽しみ方が深まること請け合いですよ!


【Nishinomiya Shrine Sugoroku】 a little explanation of cultural properties listed in etc.
西宮神社双六に掲載している文化財個々のちょっとしたご説明などなど

イラストをclickしていただくとその文化財の説明に移動します。

文化財エリア


number1


表大門

number2


銅鐘

number3


大練塀


number4

常夜灯型道標

number5


瑞寶橋

number6

社叢

number7

西宮神社苑池(神池)

number8


嘉永橋西宮神社御社用日記

number9


六英堂

number10


西宮神社御社用日記

境内末社エリア


number11


火産霊神社

number12


百太夫神社

number13


六甲山神社

number14


大国主西神社

number15


神明神社

number16


松尾神社

number17


市杵島神社

number18


宇賀魂神社

number19


沖恵美酒神社

number20


梅宮神社

number21


庭津火神社
境内末社エリア終わり



石造物エリア


number22


句碑(芭蕉・鬼貫)

number22-1


なんだろうね

number23


句碑(芭蕉)

number24


上総国燈籠元禄2年

number25


上総国燈籠元禄11年

number26


酒家中

number27


酒家杜氏中

number28


道具屋中

number29


古手屋中

number30


樽屋中

number31


干鰯屋中

number32


千足石垣寄進

number33


対の燈籠

number34


神馬

number35


記念碑

number36


日露戦争記念碑

number37


八馬家燈籠

number37-1


なんだろうね

number38


八馬家の玉垣

number39


手水鉢

number40


松尾神社の狛犬

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廣田神社摂社南宮神社の親子狛犬

number42


奉納碑

number43


日和石

number44


それぞれのえびすさま

石造物エリア終わり


新着情報表大門  国指定重要文化財(建造物)

通称「赤門」と呼ばれて親しまれている表大門は、開門神事のスタート地点としても全国的に有名です。豊臣秀吉の三男、側室茶々の第二子であった豊臣秀頼が寄進したと伝えられています。

当時新しい学問であった日本研究の一人者レオン・パジェスは、彼の著作である『日本切支丹宗門史』の中で、「秀頼が失敗したのは彼の頑固な迷信のため」と触れています。秀頼の信仰心の深さを歴史の中で知っている多くの日本人から見ると違和感を感じる表現です。レオン・パジェスはパリ生まれのフランス人外交官でした。宣教師ザビエルに興味を持っていたと伝えられていますが、実際に日本に来ていたという記録はありません。「信仰心の深さ」を「迷信深さ」といった若干見下した捉え方をしている背景には、日本の仏教や神道に対して否定的な姿勢があったのかもしれないと見ることもできます。

豊臣家の人々を今に伝える「豊内記」の中で、秀頼については私欲を慎んで民を哀れみ、国家が豊かになることのみ朝夕念じていた人物として、その人と也を表しています。 兎に角そのように清廉潔白で信心深い秀頼でしたから、表大門を寄進したのでしょう。桃山建築の雰囲気を残す、大変美しい、堂々たる門です。



新着情報 銅鐘 市指定有形文化財(美術工芸)

表大門とおなじく、豊臣秀頼の寄進とされています。前年御社殿再興の豊臣秀頼が行い、慶長十五年三月にこの鐘を奉納しています。秀頼が家康の勧めで神社仏閣の建造や寄進などを多く行っていたのはよく知られています。豊臣家の財力を削る目的と攻めるきっかけ作りの目論見が家康にはあったとされていますが、西宮神社の鐘も大変立派なものです。
以下のような銘文が刻まれています。

奉 建立攝州武庫郡 西宮
御戎之鐘 一口
諸行無常 是生滅法
生滅々己 寂滅為楽
大檀那武運長久息災延命之処也
洛陽三條 鋳物師
藤原徳左衛門 国宝作
慶長庚戌十五年三月八日 施主 敬白


ここに秀頼の名は刻まれていないように見えますが、実は秀頼は「おおだんな」と呼ばれていました。銘文に見える大檀那はまさに「おおだんな」。この鐘も前年御社殿再興を行った秀頼がおくったものなのです。


新着情報 大練塀 国指定重要文化財(建造物)

名古屋の熱田神宮の信長塀、京都の三十三間堂の太閤塀とともに日本三大練塀の一つとしてあげられているこの練塀は、室町後期に作られたと考えられています。実際にいつ建てられたということはわかっていませんが、昭和25年に行った大修理の折、宗銭三枚と元銭一枚が築土(ついひじ)の中から発見され、このことからそのように推測されています。全長247メートルにも及びます。


蛇足になりますが、この「築土」という言葉は、 劉表の孫の劉安が書いた中国の書物「淮南子(えなんじ)」の13巻にある「築土構木」という言葉が語源となります。「土木」という言葉の語源も、これに同じです。


古者民澤處復穴
冬日則不勝霜雪霧露 
夏日則不勝暑熱蚊虻
聖人乃作 為之築土構木 
以為室屋 上棟下宇 
以蔽風雨 以避寒暑  面百姓安之

古者は民、澤處し、復穴し、冬日は、則ち霜雪霧露に勝えず、夏日は、則ち暑熱蚊虻に勝えず、聖人乃ち作り、之が為に土を築き木を構え、以って室屋と為し、棟を上にし、宇を下にし、以って風雨を蔽い、以って寒暑を避けしめ、而して百姓之を安んず

国造りの基本となる考え方なのです。そう思って長く立派な大練塀を見ると、「国造りとは如何にあるべきなのか」などと考えてしまいます。


新着情報常夜灯型道標 市指定有形文化財(歴史資料)

西国街道沿いに立っていた道標です。浜方の世話人が寄進とされています。浜方はいわゆる港町です。西国と京都や大坂を結ぶ「西国街道」は重要な街道です。江戸時代初期から宿駅が置かれていました。この道標は、旅人の安全を見守り続けてきたのです。神社や宿場があり、古くから人が住んでいた町の北側は「町方」と呼ばれ、酒造業などを多く集まる南側が「浜方」と呼ばれていました。西宮はこの二つを統制していました。


しかし江戸時代中期以降には、港町である「浜方」が江戸へ酒を運ぶようになって発展し、町方と浜方の賑わいは逆転します。「浜方」の世話人である平内太郎右衛門と真宜喜一三右衛門が「町方」の中心にあった西宮神社に道標を建てたという由縁が残っています。



新着情報瑞寶橋 国登録有形文化財(建造物)

北辰馬家が寄進し、再建も行った橋です。北辰馬家とは、西宮で「馬氏」と言われる十五家の一つです。辰馬氏、葛馬氏、八馬氏、乙馬氏、六馬氏、小上馬氏などで十五家。西宮の宿場の役に関わっていた家柄ではないかと言われています。もちろん西宮神社にも関わり深く、神幸の騎馬供奉などの重要なお役にもついていた御家柄とされています。灘五郷の清酒の中でももっとも親しまれているブランドの一つ「白鷹」は、世界的にも知られています。

この「白鷹」をつくる白鷹株式会社は、北辰馬家が興したものです。初代は一流の酒米を使った酒造りのために良い米を作った者に奨励金を出すなどし、これが地域振興に大いに貢献することとなりました。三代目の悦蔵さんは京都帝国大学で考古学を学び、卒業して白鷹を継承してからも考古研究を熱心に継続していたとのこと。研究論文やコレクションは、(財)辰馬考古資料館に収められています。

地域の発展や学問を身に着けるきっかけの提供、人材育成にも気を配る姿勢は兵庫の富豪、特に酒造メーカーの特徴でもあります。それだけ「圧倒的に栄えた」ということの表れともいえるでしょう。土地への還元は、神仏への感謝の気持ちであったのかもしれません。


新着情報社叢 県指定天然記念物

  

えびすの森として親しまれています。だんだんと緑が少なくなった都市の中で、自然を残したその場所では、散歩でゆっくりとした時間を過ごす人もいれば、植生の研究をする人などもいて、楽しみ方は様々です。

以前読書会で南方熊楠の『神社合祀に関する意見書』について触れる機会がありました。えびすの森も、神社合祀に際しては存続の危機に直面したことでしょう。財界の大物が信心する西宮神社ですから、他の神社ほど危機があったのではないだろうと予想することはできますが、もしその時に廃社されていれば、長年守られてきたこの森も今なかったわけです。守り続けてくれた先人たちへ感謝しかありませんよね。


新着情報 西宮神社苑池(神池)国名勝地

西宮神社の境内で、神池として親しまれています。神池の四季折々の表情を、その時代時代に生きてきた人が、どのように見つめ、川面に自分を映したのかななどと想像すると、創建されたとされる室町時代が身近に感じます。

新着情報 嘉永橋 国登録有形文化財(建造物)

酒造家が嘉永年に建立した橋です。嘉永は、1848年から始まっています。孝明天皇の御世でした。崩御について、なにかとミステリーめいたことが囁かれる孝明天皇です。

嘉永6年にはペリーが来航していますので、日本の混乱が始まる幕末期ということになります。はっきり「嘉永何年に作られた」ということが読み取れない橋ですが、平和に不安を抱くことなく過ごせた泰平の江戸時代に、開国を迫る軍艦が表れ、地震などの災害まで続いて、徐々に不安の影を落としていた時期だとはいえそうです。

新着情報 六英堂

岩倉具視の私邸の一部が移築されたものです。岩倉具視は公卿堀河康親の次男として京都に公家の子として生まれたものの、容姿もさることながら言動も少々粗野で、公家の中で変わり者でした。
そんなことから公家の子女達からは「岩吉」とニックネームを付けられていたようです。そんな「岩吉」が日本の激動を支えた重要人物になるとは、当時そう呼んでいた子女たちは知る由もなかったでしょう。この六英堂は、六英傑と言われる岩倉具視、三條実美、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが会合を重ねた邸だということから、この名がついたとされています。


病に伏した岩倉具視を明治天皇が見舞ったのも、この家だそうです。戦前戦後と引き取り手を変え移転もあったのですが、今こうしてこの場に建っています。阪神大震災において損傷はひどく、新しい柱もかなりの数見られます。




新着情報 西宮神社御社用日記 市指定有形文化財(古文書)

歴代宮司によって書き継がれた神社の公用日記です。ある程度大きな神社であれば日記は残されていたはずですが、これだけ立派な形で現存しているものは少なく、歴史的にも重要な意味があり、価値は計り知れません。小さな神社であれば複数の神社の宮司を兼任する廻り宮司などとなり、こういった日記すら残されていないものです。

新着情報 火産霊神社 境内末社

愛宕さんの名で親しまれています。火伏せの神様です。
伊邪那岐、伊邪那美との間にお生まれになりましたが、火の神であったので、伊邪那美の陰部は焼け、この火傷がもとで伊邪那美は亡くなってしまいます。怒った伊邪那岐は十拳剣「天之尾羽張」で火産霊を殺してしまいます。このような話が、古事記の「神産み」などで伝えられています。
享保十七年1732年、当時の神主が江戸時代前期に山崎闇斎が提唱した神道説「垂加神道」を奉じたという由縁から、山崎闇斎に師事した浅見絅斎の門下にある若林強斎と山本復斎の霊社を合祀したとのことです。
極端なナショナリズムが台頭したことで「愛国」に一種の警戒心が生まれている現在ですが、垂加神道を「尊王思想」と位置付けず、「道徳性に重きを置いている」と理解した方が平和的で、今の時代には沿っているでしょう。

ちょっとここで火消の話を。

江戸で火消といえば、町娘から黄色い声が上がるほど、粋でイナセで格好いい男性の象徴でした。治安維持にまで、ある程度の見せ所があったわけですが、上方になると少々違います。
上方での火消しは別名「手伝さん」です。「てったいさん」と読むようですが、どことなく軽んじられている雰囲気があります。実際に親方衆によって構成していたのではなく、建築現場の手元…要するにお手伝いをしている人で構成されていたようです。「てったいさん」では、きゃーきゃーとはいかないかもしれませんね。

新着情報 百太夫神社 境内末社

人形つかいの祖神とされる百太夫神をお祀りしています。産所村から遷座されました。今ではこどもの神様としても、信仰を集めています。
正月の五日には、百太夫神社祭が執り行われます。今日のえびす信仰は、室町時代から西宮の今の産所町である散所村に住んでいた人形遣いの人々が、全国を行脚しながらえびす神を広めたことから始まっているといわれています。西宮神社の成り立ちに深く関わるお話ですので、別枠で詳しくお話ししたいと思っています

新着情報 六甲山神社 境内末社

六甲山白山権現の分社です。慶長期より前から六甲山山頂には白山権現が祀られていました。六甲山一帯は、廣田神社の社領でした。寛政元年1789年に、その分社・遥拝所として、浜南宮の中に勧請されたものです。白山権現白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神です。十一面観音菩薩を本地仏にしています。神仏分離や廃仏毀釈が行われた時代には、全国各地の白山権現社は次々と消えていきました。その時代をどのように超えて今に至るのか、知りたいところです。人形つかいの祖神とされる百太夫神をお祀りしています。産所村から遷座されました.。

新着情報 大国主西神社 境内末社

西宮神社の創建と関わる社となります。享保二十年1735年、大己貴命 少彦名命二柱を勧請して神社にしたとされています。明治七年に、「西宮神社」と「大国主西神社」を県社と定めると決められました。とはいえ西宮神社に社務社入を司る祠掌がありますので、戦後に至れば大国主西神社は社格を持たない神社になっています。

新着情報 神明神社 境内末社

西宮町勤番所から遷座された神社です。
西宮町には、尼崎藩陣屋が置かれていました。明和6年1769年の上知の後、大坂町奉行所勤番所になりました。上知令は尼崎藩松平家に出されたもので、尼崎藩領から西宮町のほか、越木岩や今津のような儲かる場所は幕府領にすることにするといった内容のものです。もともと入り組んでいた西宮領がさらにややこしくなったのも、このためです。水争いや、さらに石高を上げるために躍起にならざる得ずに悪政が敷かれる原因も、この複雑さにありそうです。勤番所から後には西宮町役場になったということです。勤番所には江戸時代、正義の人として知られる大塩平八郎もいたとのこと。勤番所とは、そのような位置にあったものです。御祭神は食物を司る神である稲荷神のおひとりです。

新着情報 松尾神社 境内末社

寛政二年1790年に当地の酒家中が奉斎しました。酒造繁栄を願ってのことだったようです。「中」とは今でいうところの組合や寄合のようなものと考えられます。宮水の発見は天保8年1837年とも天保11年1840年とも言われていますが、それ以前から酒造りは盛んでした。本格的になったのは、樽廻船などのインフラが整った江戸時代ですので、奉斎は丁度勢いに乗りつつあった時代だったのかもしれません。六甲山白山権現の分社です。慶長期より前から六甲山山頂には白山権現が祀られていました。

新着情報 市杵島神社 境内末社

神池の弁財天をお祀りしている摂社です。貞享三年1686の古地図にはすでに弁財天をお祀りしている様子が描かれています。弁財天は七福神にも挙げられているなじみ深い神様。財宝神としても信仰を集めています。

新着情報 宇賀魂神社 境内末社

神池にある農業神宇賀御魂命をお祀りしています。農業だけでなく、産業の繁栄も司っていますので、多くの人の信仰を集めています。室町時代になる文明年間には、すでにこの場にお祀りされていたと考えられます。

新着情報 沖恵美酒神社 境内末社

えびすさまの荒御魂を祭祀しています。もともと境内外の洗戎…今の荒戎町に鎮座していたものを、明治5年、この場所に遷座されたとわれています。「あらえびすさん」として信仰を集めていますので、えびす様の荒御魂がお祀りされていると考えられています。

神様には神の2つの霊魂があるとされています。和魂(にぎみたま)は、恵みの霊魂です。雨や日の光など、包み込むような優しさを持っています。「ご加護」と言われるものは、この面です。しかし荒魂は「畏れ」です。天変地異、病をもって、人の心を荒ませ、争いまでも引き起こします。祟りと言われるものも、この面です。しかし勇猛果断であり義侠強忍などにもつながり、決して悪いものばかりではありません。発展には、荒魂のなせるものも必要なのです。

この概念は一霊四魂によるもので、荒魂と和魂のほかに幸魂と奇魂があり、この4つの霊魂は直霊(なおひ)に司どられているとするものです。荒魂について「お不動様」のお顔の猛々しさを想像する人もいると思いますが、仏教での怖いお顔は「荒魂」の表れではありません。仏(大日如来)の御心を伝えるのにはどういった方法が効果的なのかは、人によって違います。慈愛に満ちたお顔で現れた方が「聞ける」人もいれば、怖いお顔で現れた方が「聞ける」人もいます。それによって姿を変えて仏は現れるとされています。それを化身や内証といいますが、仏の魂が様々側面を持っているということではなさそうです。神と仏の大きな違いなのではないでしょうか。また神様が人の生活の中にあり続ける由縁ともいえるのかもしれません。

新着情報 梅宮神社 境内末社

表大門の外にある酒の神酒解神をお祀りした摂社です。もともとは松のご神木だけだったのですが、嘉永4年に社殿が建てられました。宮水も発見され、日本一の酒造りの土地になった西宮らしいお社です。

宮水についてちょっとご説明しておきましょう。


宮水は、西宮神社の南東側一帯に湧き出ています。硬度が高く、リン含有量が多く、鉄分が少ないこの宮水は、日本酒つくりに適しているとされています。天保8年1837年もしくは天保11年1840年に、山邑太左衛門が発見したとのこと。わが読書会の「西宮昔話双六」でも、宮水の発見についてのマスがあります。

山邑太左衛門は桜正宗の六代目蔵元ですが、この山邑家は、阪神間モダニズムにも多大な影響を与えた名士のひとつです。
「美味しいお酒はこの水のおかげだ」と山邑太左衛門が確信してから、他の蔵元も井戸掘りに夢中になります。しかし水脈に当たらない蔵元もあり、そういった蔵元は宮水と同じ水脈が出た農家などから水を買うようになりました。
宮水を売る「水屋」は西宮特有のお商売になりました。


蛇足ですが、最初にペットボトルの水を発売したのはハウス食品でした。ハウス食品の主力商品であるカレーに合う水として発売されたようです。今でこそごく普通に水を買いますが、当時は蛇口をひねれば出る水に対してお金を出して買う行為に若干の抵抗があり、「大胆は商品」といった印象を持ちました。ハウス食品は大正時代に大阪で創業されています。「水を売り買いする」といった発想に、土地の特色が影響したのかもしれないと、深読みしてしまいます。

新着情報 庭津火神社 境内末社

竈の神奥津彦神がお祀りされ、社殿はありません。ただ塚形の封土があるのみで、古代祭祀のように見えます。貞享三年1686年の絵図に「荒神」と書かれているようですが、あまり多くはわかっていないようです。荒神とは日本の民間信仰で台所の神様として祀られる神様です。「あらがみ」ではなく「こうじん」と読みます。「荒い」を荒っぽい、粗野であるといった意味でとらえると激しい神様のように思えてしまいますが、ここでの「荒」は、あるがまま、自然のままといった意味で、日本古来の「自然信仰」から生まれた神様と理解すべきでしょう。

火も竈も酒造りには不可欠ですし、宿場町としても発展には欠かせないものです。それを大切にするのも当然なのかもしれません。甲山白山権現の分社です。慶長期より前から六甲山山頂には白山権現が祀られていました。

新着情報 句碑(芭蕉・鬼貫)

芭蕉の150回忌記念で伊丹の俳人梶曲阜が中心となり建立したものです。
天保14年1843年芭蕉百五十年忌のことです。碑陰には関わった俳人17名の句も刻まれています。

はるもやゝけしきとゝのふ月の梅 はせを(芭蕉)

これは 「薦獅子集(巴水編)」に掲載されているものです。
元禄6年1693年1月20日に、深川芭蕉庵から大垣の木因に宛てた書簡に見られます。
   
にょつぽりと秋の空なる富士の山 おにつら(鬼貫)

この句は、親しく交流した俳人古沢鸞動にあてたものです。貞享3年1686年に、鬼貫は仕官のため江戸へ行きました。鸞動は「ご一緒して富士の山を見たいものだが、病で行けない」と言い、富士に姿を教えてほしいと願います。しかし鸞動1686年、21歳の若さでこの世を去ります。鬼貫の帰りを待たずしてのことでした。鬼貫は鸞動を偲び、伊丹墨染寺の塚の前で富士の山の様子を告げたのです。これがこの句です。鬼貫は寛文元年1661年に伊丹の酒造家上島宗次の三男として誕生しました。その頃の伊丹の酒造業は全国的に「ひとり勝ち」でしたので、さぞや豊かなお家柄であったでしょう。遅咲きの芭蕉より18年ほど年少でありながら8歳で「こいこいといへど蛍がとんでゆく」の句を詠むなど、評価を得るのは大変早かったのです。

そういえば芭蕉は服部半蔵ではないかという都市伝説がありますね。あまりに遅咲きだったということと、高齢なのに大変なスピードで全国を行脚しているということ、生まれ育ちが謎めいているということ、そして「かごめかごめ」の歌。蕉門十哲のひとり河合曾良が最後を巡見使として迎えていることも「芭蕉が服部半蔵なのでは」という説を彩っています。

新着情報 どこにあるのかな?

この燈籠がどこにあるのか、どのような背景があるのか、さぐってみて!
「酒家中」のすぐ近くよ。

新着情報 句碑(芭蕉)

平成5年芭蕉の300回忌記念で西宮俳句協が建立しています。
扇にて酒くむかげやちる桜
と刻まれ、これは貞享5年1688年に吉野で詠まれた句です。

新着情報 上総国燈籠

鰯を求めて房総半島へ進出した漁民が寄進したものです。寛政2年と11年にそれぞれが寄進されています。

江戸時代初期、摂津は佃村の漁民が江戸に移り住み、そこが佃島となった話は有名です。時化て漁に出られなかったり、船の上で食べるために保存食として作ったものが「佃煮」と呼ばれるようになった由縁でもあります。このように西宮の漁民もまた、関東に出かけていったのです。

この上総国燈籠には、上総国蓮沼村から奉納されたものであるにもかかわらず、西宮で多く見られる善塔や乙馬といった苗字が多くみられます。一介の漁師を想像すると「小さなお金をこつこつと貯めて奉納した」ように想像してしまいますが、苗字を許されていることから見て、それなりの名士であったといえるでしょう。同じような燈籠が、上総の蓮沼にある五所神社にも見られます。同じような名が刻まれていることから(西宮市立郷土資料館関連サイト「聞きかじり西宮歴史散歩」より)移り住んだ人々は自分のルーツにある西宮神社も大切にし、今住んでいる土地の神様も大切にしたということなのでしょう。えびす信仰が広まった背景には傀儡たちが深く関わっていますが、こういった出身者の信仰心がさらに広めたといえそうです。

新着情報 酒家中

酒造家たちの組合のようなものなのか、また「よりあった程度のもの」なのか、それとも「仲間が集まって」と解釈すべきなのか、それはケースバイケースになりますが、とにかく「中」がついたものの寄進は、同業組織の複数人で行ったものです。

新着情報 酒家杜氏中

松尾神社勧請の際に建立されたようです。寛政二年1790年に松尾神社は酒家中により奉斎されていますので、その折に酒家杜氏たちも一緒に奉納したということなのでしょう。

新着情報 道具屋中

道具屋が集まって奉納したと考えられます。
なにの道具屋なのかはここから知ることはできませんが、道具屋が古手屋を持っているということも多く、一緒に商いを発展させるという関係にあったとも考えられます。

新着情報 古手屋中

古手屋が集まって奉納したと考えられます。江戸時代のリサイクル事情などでも取り上げられることが増えた古手屋ですが、道具屋が古手屋も商うことが多く、そこから大きく発展していった店も数知れません。

蛇足になりますが、江戸の呉服屋であった小橋屋は天明5年1785年に、5万両もの御用金を出しています。三井といった後に財閥と呼ばれるほどの大店で7万両でしたから、かなりの金額です。この小橋屋は古手屋の商いも行っていました。庶民は新しい着物を買うということが経済的に「贅沢」なことでしたので、この古手屋は大変繁盛したのです。様々なお道具についても同様で、今でいうところの「中古品」は人気でした。「不景気だから」ではなく、それが庶民のごく当たり前に生活の中にあったものなのです。

新着情報 樽屋中

樽は生活道具としてどこの家にもありますが、特に西宮では、酒造の工程で小型の物から大型の物まで用いられています。樽屋さんが大きく発展するのは当然のことなのでしょう。

新着情報 干鰯屋中

干鰯屋とは干鰯(ほしか)を扱っているお商売人さんです。西宮浜はイワシ漁がたいへん盛んで、その鰯は「宮じゃこ」と言われていました。江戸時代にはイワシを干した肥料作りが盛んに行われました。これが干鰯(ほしか)です。当然問屋さんもあり、大店もあったでしょう。それらの人々が寄り合って作った石造物と考えられます。

西宮に水害が多かったということは、良く知られています。そのため砂地が増えてしまった上に、もともとも川の堆積地や砂浜の開拓で作られた土地なのですから、あまり稲作には向いていませんでした。米以外を作ることも多々あり、できるだけお金になりやすい作物を作るようになったのはそのためです。江戸時代に入ると、綿花の需要が増えました。これは高値が期待できる作物です。しかし綿花を育てるためには、多くの肥料が必要です。本来であれば自前で肥料は調達しますが、それでも足りなくなり、にしんの肥料を北海道から取り寄せるなどもしていました。

西宮では豊かに捕れた鰯を肥料にするようになり、儲かる産業となった背景には、それがありました。

新着情報 千足氏石垣寄進碑

神池の石垣を寄進したことを表す石碑です。元禄9年1696年のことのようです。西宮御旧家千足氏が親子で寄進したようです。なにか良いことがあったり、願い事があるときに、また願い事が叶った折にお礼として寄進するなど、それぞれの背景がありますが、この親子の背景が何であったのか、知りたいところです。

新着情報 対の燈籠

台石部分に200人からの名前がみられ、これは寄進者の名前です。よくよく見ると西宮の有名人の名もあります。

新着情報 神馬

辰馬家が奉納した青銅製の神馬です。西宮で「馬氏」と言われる十五家の一つとされる名家です。「馬」にちなんで「神馬」なのか、馬に携わることが多かったからなのか、知りたいところです。

新着情報 記念碑

オリジナルの青銅板は、戦時中金属回収にあってしまい、すでにありません。
今あるものは、昭和36年に再建されたものです。こういったものまで目ざとく回収していたことを考えると、戦争は文化を奪うものだと悲しみがわいてきます。

新着情報 日露戦争記念碑

日露戦争時に軍事輸送船として進出した八馬家が寄進したものです。勝ち戦でしたので、その部門でのさらなる発展もあったことでしょう。もともと酒造業が海運業にも進出するのは自然な流れで、明治維新以降は財閥となってゆきます。八馬家もそういった流れから海運に強く、軍事輸送船としての進出がありました。

新着情報 八馬家の燈籠

西宮に10数軒ある「馬家」の一つ八馬家から寄進されました。八馬家は後に八馬財閥を形成しますが、もともとは天保10年1836年に誕生したに八馬兼介氏が22歳で分家して、米穀商を営んだのが始まりです。その後、明治に入って海運業に進出し、西宮の有力資産家に成長します。西宮銀行や武庫銀行、神戸土地興業、阪神急行電鉄等の設立に際し共同出資として名を連ねています。戦後、財閥解体などを経たためか、八馬汽船と多聞酒造を二本の柱として存続し続けますが、現在多聞酒造は大関に譲られました。西宮の旧家の一つです。背景に自己顕示欲やステータスの誇示もないとは言えませんが、西宮の名士たちの行いを見ると、純粋な信仰心や地域への還元の気持ちがあったのではないかと考えてもよいのではないでしょうか。

新着情報 これはなにかな?

西宮郷土資料館からお教えいただいたところ、これは明治43年に淡路国三原郡の個人の方が寄進した燈籠とのことです。寄進の経緯は、銘文からは読み取みとることができなかったようですが、西宮神社と淡路島にはもともとの深い関わりが考えられるようです。6月に行われる「おこしやまつり」には、かつて淡路島のびわを売る露店が並び、そのことから「びわまつり」とも言われて親しまれていたとのこと。今は、公募で決まったびわ娘が、参拝者に配っているとのお話でした。

またこんな燈籠もあります。これについても郷土資料館から以下のお話を伺いました。

こちらは寛保3年江戸大々神楽講中から寄進された燈籠。江戸大々神楽講中は江戸で結成された神楽を奉納する団体と考えられます。西宮神社の信仰がこれだけ広まる背景には、えべっさんの神像をすり込んだ御札を配る下級の神職である神人の活躍があったとのこと。これらの組織を研究するなかで、西宮神社の信仰拡大のために設置された出張所と西宮町人や漁民の関東進出とが深く関わっていたこと解明されつつあり、要するに、町民が出張所設置のための経済的支援を積極的に行ったといったことのようです。
江戸講中のメンバーには「西宮十次郎」や「千足甚左衛門」など、西宮出身者と思われる名前が銘文に刻まれ、そのお話を裏付けるもののひとつでしょう。

新着情報 八馬家の玉垣

同じく、西宮に10数軒ある「馬家」の一つ八馬家から寄進されています。よく見ると※のしるしが見られ、米穀商から発展した八馬家のルーツを感じさせるものです。

新着情報 手水鉢

寛文・文化・明治と3期にわたって再建されました。寛文は西暦1661から1673、文化は1804から1818、明治は1868から1912ですが、何切欠で再建するのでしょうね。

新着情報
    松尾神社の狛犬

境内の新設建造物の工事の際発見されました。兵庫県南部地震の折、倒壊した松尾社の狛犬です。阪神・淡路大震災は、この兵庫県南部地震によって引き起こされたものです。西宮神社も大きな被害を受けました。この松尾神社の狛犬は、その後痛々しい姿で土の中から見つけられました。地震があったことを風化させないために頑張ってくれているようです。

新着情報 廣田神社摂社南宮神社の親子狛犬


廣田神社摂社南宮神社の親子狛犬です。親子対で寄り添っている狛犬は、全国でも珍しいものです。

新着情報 奉納碑

大々神楽講中より寄進されています
江戸の講がわざわざ奉納したのか。南門の東側にも同じようなものが見られます。西宮神社のえびす信仰を広めるために、出張所や西宮町人や漁民の関東進出は深いかかわりがあったということが、近年の研究でわかってきたとのことです。(西宮市立郷土資料館より情報提供)町民が出張所設置のための経済的支援を行ったとのことです。こういった背景があって、わざわざ遠方より奉納することが行われるに至ったのでしょう。江戸講中には「西宮十次郎」や「千足甚左衛門」といった西宮の出身なのではないかと考えられる名も刻まれています。

新着情報 日和石

神池周辺にいくつか見られます。船の航行時に使用された日和石を複製したものです。モニュメントとして設置されていますが、こういったものは三重の日和山に飾られています。

三重にあるものは、文政5年1822年摂州灘廻船中から寄進されたものです。日和山の名は全国で見られますが、これは航路が開かれた江戸時代に付けられたものだと考えられています。古くから付けられた「山の名前」ではなく、「日和見をする山」のことなのです。当時の船乗りたちは動力がない船を用いていました。そのため、天候を見たり順風を捉える必要がありました。それを見るための山だったのです。

三重の鳥羽にある日和山は、江戸時代、大坂や西国から江戸に向かう廻船が必ず寄港していました。伊豆の下田まで立ち寄れる港はなく、薪や水といったものの調達には寄港が不可欠だったのです。佐藤信淵の「鳥羽領経緯記」において、鳥羽港は「日本総国に於て実に海路の要枢なり」と書かれています。広重の絵にも、日和山と鳥羽湊が描かれ、「眼下の浦々島々は庭中の泉水取得るごとく佳景の書中にあるごとし」と讃えられた見晴らしと景観の美しさが今に伝えられています。

新着情報 それぞれのえびすさま

傀儡たちによって全国に広まり始め、その後、各地に移り住んだ人々などにも信仰が伝えられたえびすさま。今では日本各地に恵比須神社があります。そこでは西宮神社にはない、オリジナルの神事などもあります。

博多の恵比須神社も商業の街らしく、大変親しまれています。そこでの固有の神事は徒歩参りや福銭です。徒歩参りはきれいどころが宵戎の日、歩いてお参りをする行事です。島田に稲穂のカンザシを差して、紋付、裾ひき姿で歩く姿は圧巻です。福銭は「えびす銭」と呼ばれ、恵比須神社から銭を貸出すものです。財布のお守りなどにして1年身に着け、1年経ったらお返しします。もともとは江戸時代に将軍の若君等がお生まれになったり、元服といったお祝い事があった折に、祝儀として黄金の銭、銀の銭が鋳造されました。

この銭は神社や仏閣にも配られました。今でいうところ「記念コイン」でしょう。その銭を授かった人が幸運に恵まれたことから、福銭は始まったものです。その時の銭がそのまま使われていますので、お金を貸し出しているというものではありません。あくまでも縁起物です。

このように「その土地にしかない恵比須様」が各地にあります。それを知るのも楽しい作業です。

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